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高森顕徹先生から聞かせて頂いたこと(若不生者の誓い2)

高森顕徹先生から聞かせて頂いている阿弥陀如来の本願について、話をしていました。
大宇宙の仏の先生である阿弥陀如来は、
「我を信じよ、どんな人をも 必ず救う 絶対の幸福に」 と誓われています。

すべての人間は、みな苦しんでいる。
大統領からホームレスに至るまで、金、財産、地位、名誉、家族などの有無に関係なく
苦しみ悩んでいる。 どうしてなのか。すべての人間を苦しめている元凶は何なのか。
阿弥陀如来は、五劫という長期間、徹底調査され、すべての人の苦しみ悩みの根元は
「無明の闇」という暗い心である、とつきとめられました。

では、無明の闇とは、なにか。
高森顕徹先生の書かれた「なぜ生きる」 に詳しく書かれていますので、それを読んで
頂けたらと思いますが、ここでは簡単に説明したいと思います。

無明とは明かりが無い、暗い心をいいます。
暗いとは、ハッキリしない、わからない、ということです。
何に暗いのかといいますと、後生に暗い心だけを、無明の闇といいます。

後生とは、一息切れたら後生です。
後生と聞くと、遠い先のことだと思っていますが、そうではありません。
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、後生です。
吸う息、吐く息とふれあっているのが後生です。

高森顕徹先生からお聞きしたこと(若不生者の誓い)

本師本仏の阿弥陀如来には、48の本願(お約束)があります。
なかでも、阿弥陀仏の本心が誓われているのが、18番目の本願です。
選択本願、王本願とも言われます。
釈迦が仏教を説かれた目的も、この18願一つを説かれるためでした。
高森顕徹先生も、常に弥陀の本願一つを説かれています。

18願は漢字で36文字。
阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)は、逆謗の屍(五逆罪、謗法罪を造り、
金輪際助かる縁手がかりの無い者)とみてとられ、そういう者を、必ず生まれさせる、
と本願に誓われています。

「若不生者 不取正覚」 (もし生まれさせることができなければ、正覚(仏の命)を捨てましょう)

阿弥陀仏は、命をかけて、必ず生まれさせる、と誓われています。
では、なにを、どのように、生まれさせる、と仰言っているのでしょうか。

親鸞聖人は、

「若不生者の誓ゆえ、信楽まことに時いたり
一念慶喜する人は、往生必ず定まりぬ」

と、仰言っています。
阿弥陀仏が命をかけて誓っておられるから、必ず信楽の心に生まれる時がくるのだ、
と仰言っています。暗い心を明るい心に生まれさせる、と弥陀は誓っておられるのです。

では、暗い心とはなんなのでしょうか。高森顕徹先生から教えて頂いたことを、
続けて書かせていただきます。

高森顕徹先生のお話(阿弥陀仏の本願)

高森顕徹先生が、常に教えて下さることは、阿弥陀仏の本願ただ一つです。

七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、歴代の善知識方は、みな弥陀の本願以外に

とかれてはいません。 それはお釈迦様が生涯、阿弥陀仏の本願しか説いて

おられないから、当然のことであります。

私たちは、阿弥陀仏の本願によらねば、絶対に救われることはありません。

阿弥陀仏は、

「すべての人を、必ず助ける、絶対の幸福に」

と誓われています。 「すべての人」と約束をしておられる仏は、阿弥陀仏

だけです。 では、阿弥陀仏は、約束の相手である十方衆生を、どうみて

とられているのか。

唯除逆謗と、弥陀は仰言っています。

「唯除」とは、金輪際助かる縁手がかりのない者。

「逆謗」とは、五逆罪をつくっている者、謗法罪を犯している者。

すべての人間は、逆謗の屍、とみてとられ、それを、

「若し生まれずは、正覚を取らじ」 と、必ず生まれさせてみせる、

と命をかけて誓われているのです。

ゆえに、阿弥陀如来の本願を、親鸞聖人は若不生者の誓い、とも

言われているのです。 親鸞聖人も、高森顕徹先生も、この「生まれさせる」とは、

死んでからではないぞ、生きている現在だぞ、と、私たちが聞き誤り

やすいところを正してくださっています。

高森顕徹先生のお話(信心決定)

高森顕徹先生が常に説かれる、「信心決定」(しんじんけつじょう、と読む)とは、

どんなことなのでしょうか。

信心決定は、信心獲得(しんじんぎゃくとく)とも言われます。同じことです。

蓮如上人は、「信心獲得す、というは第18の願を心得るなり」

と、御文章に書かれています。

信心獲得=信心獲得=第18の願を心得る

まず、第18の願とは、なんでしょうか。

阿弥陀仏の本願は、全部で48あり、これを弥陀の48願といいます。

その中で、阿弥陀仏が本心を誓われたのが、18番目の願であり、

この願のことを、ここで「第18の願」と言われています。

阿弥陀仏の本心が誓われているので、選択本願、王本願とも言われます。

では、阿弥陀仏は18願でどのような約束をされているのでしょうか。

今日の言葉でいいますと、

「すべての人は、金輪際助からない極悪人である。

我を信じよ、必ず助ける、絶対の幸福に」 となります。

お釈迦様も、親鸞聖人も、そして今日高森顕徹先生も、常に教えておられる

のは、この阿弥陀仏の本願ただ一つであります。

正信偈には、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と書かれています。

まず、本願とは、誓願ともいい、約束のことです。 約束には必ず相手が

あります。阿弥陀仏の約束の相手は、“すべての人”です。この中に入らない

人は一人もありません。こんな約束の相手が広い本願は他にありませんので、

阿弥陀仏の本願を弘誓、ともいわれます。他のいかなる諸仏もできない約束

なのです。すべての人は、この阿弥陀仏の本願によらねば、絶対に助かり

ません。

では、阿弥陀仏は、約束の相手であるすべての人を、どのように見てとって

おられるのでしょうか。

高森顕徹先生のお話(2)

高森顕徹先生が、毎回、ご説法をはじめられる前に述べられる、

「あわれ、あわれ

存命のうちに、

みなみな、信心決定あれかしと、

朝夕思いはんべり

まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心、しばらくもやむことなし」

という、蓮如上人の御遺言について、話をしていました。

まず、最初に、「あわれ、あわれ」と蓮如上人は仰言っています。

「あわれだなあ、かわいそうだなあ、不憫だなあ」 と、お亡くなりになる直前の

蓮如上人が、生きている人たちに対して仰言っています。

ふつうは逆ですよね。生きている人たちが、死んでいかねばならない人に対して、

かわいそうだなあ、あわれだなあ、と言います。

では、蓮如上人は、なにを、「かわいそうだ、不憫だ」と言われているのでしょうか。

「存命のうちに」とは、命のある間に、ということ。死んでからでは間に合いませんよ。

生きているときが勝負ですよ、ということ。

「みなみな」とは、みんなの人に。すべての人に。

「信心決定あれかし」 信心決定(しんじんけつじょう、と読みます)してもらいたい。

「朝夕思いはんべり」 この蓮如、朝から晩まで思い続けていることは、このことばかりだ。

以上でおわかりのように、蓮如上人が85歳で亡くなるまで、一日中思い続けて

おられたことは、「命のある間に、みんなの人に信心決定してもらいたい」 これ一つ

であったことが、おわかりでしょう。

祖師親鸞聖人も、私たちに願っておられることは、「信心決定」これ一つであります。

ですから、「信心決定」ということが、わからなければ、親鸞聖人や蓮如上人の教えは

絶対にわかりませんし、浄土真宗にはなりません。

高森顕徹先生は、つねに、ご説法で、信心決定とはどういうことかを、お話下さって

います。

高森顕徹先生のお話

高森顕徹先生は、いつも話をされる前に、次の言葉を言われます。

布教をはじめられた50年前から、ずっとだそうです。

「あわれ、あわれ

存命のうちに、

みなみな、信心決定あれかしと、

朝夕思いはんべり

まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心、しばらくもやむことなし」

これは、今から約500年前に亡くなられた蓮如上人という方の遺言です。

蓮如上人とは、どんな方かと言いますと、親鸞聖人の教えを、正確に、

迅速に、もっとも多くの人に伝えた人です。今日まで、蓮如上人の右に出る人はないといわれます。

親鸞聖人は800年前の方で90歳で亡くなられ、蓮如上人は500年前の方で85歳で亡くなって

おられます。 今日、形だけとはいえ、浄土真宗の寺は2万を越えていますが、この蓮如上人の時代

に急速に広まったと言われています。

その蓮如上人は、三頭の馬を使われ、日本全国をかけめぐり、正確に親鸞聖人の教えを伝えて

いかれました。 その影響力が大きかったからでしょう、邪教邪宗の者から、ねたまれ、そねまれ、

なんども命を狙われておられます。

今日、私たちが親鸞聖人の教えを聞かせて頂けるのも、この蓮如上人の命がけのご布教が

あったなればこそと、感謝せずにおれません。

その蓮如上人が、85歳で亡くなるときに、おっしゃったのが、上にあげた言葉です。

遺言とは、その人がもっとも言いたい、これだけは言い残したい、というひじょうに大事なことです。

どうでもいいことは遺言しません。

蓮如上人がもっとも願っておられること、これ一つわかってもらいたい、と思っておられることが

言われているはずです。それは、そのまま親鸞聖人の願っておられることであり、

50年以上、このお言葉を讃題で述べられて話をされてきた高森顕徹先生が、もっとも願って

おられることと思います。

では、このお言葉の意味は次回、お話したいと思います。

「生き方」の問題-高森顕徹先生から学ぶ親鸞聖人の教え

現代の政治や経済、医学などは常に進歩しています。しかしそれで私たちが幸せになれるのかと言えば、そうとは言えないようです。
高森顕徹先生の本『なぜ生きる』をご紹介します。

一人の遭難者を助けるために、レスキュー隊が動員されます。人命は地球よりも重いと言われているからでしょう。「生きることイコール良いこと」、この大原則が否定されたら、延命を目的とする医学をはじめ、政治・経済、科学・芸術、倫理・法律も、すべてが空中分解します。これらは、「どうすればより長く、快適に生きられるか」の追求以外ないからです。
リストラや介護の不安を解決して、安心して生きられるようにするのが、政治や経済の役目でしょう。昔の洗濯は中腰のまま洗濯板に衣類を押しつけ、固くしぼりあげる重労働だった。「洗多苦」とよばれるほどでしたが、今はボタン一つ押すだけ。科学技術の進歩で、生活が楽になったことは否めません。人間関係のトラブルを解消し、気持ちよく生きられるようにするのが倫理や法律です。毎日、仕事仕事では大変なので、明日への活力剤として、芸術やスポーツがあります。
これらはみんな、「どうやって苦しい人生、楽しく生きるか」の努力です。「人類への貢献」といわれるものも、この「生き方」の範疇以外のものではありません。

「生き方」の問題……。

走ることに置き換えれば、「走り方」の問題になります。

政治や経済、科学や医学は、例えて言えば、より長く、より快適に走ることが出来るようにサポートしてくれるもの。
そうなると、それらの進歩・発展は、確かにうれしいことですが、それがそのまま私たちの幸せになるかというと、そうは言えないようです。

走る人にとって、最も大切なのは、「ゴール」ですから、そのゴールがハッキリしていてこそ、走ることに意味があるし、私たちをサポートしてくれるものに、だから感謝できるのだと思いました。

「走る」ことで言えば、「ゴール」。
じゃあ、「生きる」ことで言う「ゴール」、「生きる目的」は何だろう?
自然と、こんな疑問が起きてきました。

高森顕徹先生は、親鸞聖人の教えを通して、この疑問にはっきりと答えて下さいました。
親鸞会は、その親鸞聖人の教えを正確に伝えるための集まりであることがわかります。

快適な環境と幸せに生きる事の違いとは-高森顕徹先生の著書に学ぶ

今回は、高森顕徹先生の本、『白道燃ゆ』からご紹介します。
「金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、という迷信が、人類を支配している。
 迷信に凝り、線香六十束でいぶり殺された娘さんや、悪魔を退散させてやるといい殴り殺した事件や、邪教を盲信して医者にかからず、盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、迷信の犠牲者ではない。
 金や、財産や、地位や、名声は、我々を幸福にする材料ではあるが、それがそのまま幸福ではない。
 幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、全人類を不幸のドレイにしている」
と書かれてありました。
初めて読んだとき、「幸福」と「幸福の材料」という言葉をみて、今までその違いをまったく考えてこなかったので、「どういうことだろうか?」と思ったことを覚えています。

高森顕徹先生は、
「いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。
生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても同じである。いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。技術がなければ、つくった洋服は着られない。
たとえ材料は悪くとも、お花の先生は美しい花をいけるし、料理の先生は、美味しい料理を作る。名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。悪い材料も生きてくる」

と教えてくださいました。
これは、身近なことでも、よくあることなので、すごく反省させられました。
性能の高いパソコンを買っても、結局、インターネットを見ることぐらいにしか使っていない私は、まさに「宝の持ち腐れ」です。
材料が、ぜんぜん活かされてないなぁ、と恥ずかしい気持ちになりました。

「あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、ぜいたくな生活をしながら、不幸をかこっている人もある。また、貧しい生活の中にも、我が身の幸福を喜び、力強い、明るい生活を送っている人もいるのはその為である」

とも書かれてあり、幸せに生きられるか、不幸に苦しむか、それは、裕福かどうかで決まることではない、ということがよくわかりました。

これまで、政治・経済、科学や医学の進歩により、快適で住みやすい環境を手に入れさえすれば幸せだと思っていましたが、考え違いでした。

実際、どんな環境を手に入れても、不安と焦燥、満たされない孤独感に悩み、自殺する人は後を絶ちません。

快適さと幸せに生きられるかどうかは、また別の問題だ、ということを、高森顕徹先生の「白道燃ゆ」を読んで知らされました。

親鸞聖人の教えには、人々が求めてやまない生きる目的がハッキリと教えられています。それ一つを伝えているのが浄土真宗親鸞会であり、高森顕徹先生は、その正しい親鸞聖人の教えを、ただひたすらに説いておられます。

合掌

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

「幸福」と「幸福の材料」の違い-高森顕徹先生の著書より

浄土真宗親鸞会の法話会では、浄土真宗の教えを親鸞聖人、蓮如上人の言葉から詳しく教えて頂きますが、時に、歴史上の偉人のエピソードを通して話をされることもよくあります。
そのような小話がたくさん掲載されているのが高森顕徹先生の書かれた『光に向かって100の花束』です。

その中の一つの小話に、こんなのがあります。

徳川家康が、「この世で一番おいしいものは何か述べよ」と周りの家臣たちに尋ねたお話です。ある者は「酒」といい、ある者は「菓子」、「果物」と、好みの嗜好物をあげたのですが、いずれの答えにも家康は不満げでした。
そこで、同様に局のお梶に対しても尋ねると、「一番おいしいものは塩でございます」と、お梶はきっぱり答えました。「なるほど、それでは一番まずいものはなにか」重ねて尋ね、それに対してもお梶は「一番まずいものは塩でございます」と無造作に答えました。

「さすがお梶である」 家康は、彼女の聡明さに感心したという。

塩は味の素であり、あらゆる味を活かすものだから、一番おいしいものに間違いありません。また、すべての味を殺すのも塩ですから、一番まずいものでもあります。さらに直言すれば、本来塩は、おいしいものでも、まずいものでもなく、サジ加減一つで変化する。塩は味の材料にすぎないので、これをこなすサジ加減こそ、味の素であることを道破したところに、お梶の答弁が妙答として、万人をうなずかせた、というお話です。

高森顕徹先生は、健康も財宝も名誉も幸福の材料にすぎず、これらを自在にこなしきることこそ、人生の要諦であろう、と教えてくださっています。
おいしい料理には、確かにおいしい食材が必要。しかし何よりも、その材料を活かす腕が重要だとわかります。

高森顕徹先生から教えていただいて、人生への視点がガラッと変わりました。
今までの人生は、良い食材さえ揃えばうまい料理ができる、と誤解していたのだな、と思いました。

高森顕徹先生の本は、私たちの盲点になっているところに、「ハッ」と気づかせる内容が多数掲載されているので、何度も読み返さずにはいられません。

「幸せは続かない」高森顕徹先生から教えていただいたこと

高森顕徹先生の本を読むと、まるで自分に語りかけられているような気持ちになります。
「あなたにとって幸せとは何?」
高森顕徹先生からそのように問われているかのようです。

人生の幸せって何だろう?
私がちょうど予備校に通っていた時期、良く考えていた事です。
憧れの会社で働く。
お金持ちになる。
大好きな人と結婚し、家族の団欒を持つ。
思い浮かぶ事は色々。
でも、どの答えも何かスッキリしないものがありました。

高森顕徹先生の監修された本『なぜ生きる』を読んだ時、平成4年のバルセロナオリンピックで、平泳ぎ金メダルを取った、当時14歳の岩崎恭子選手の事が書かれていました。「生きていていちばん幸せ」とインタビューで語ったとおり、14歳で、人生最大の喜びが訪れたのです。当然周囲は「もう一度金メダルを」と期待し、大きなプレッシャーに。高校受験のため練習ができず、記録は不振。何度も水泳をやめようと思い、「金メダルなんていらないと思った」と述べています。
「いちばん幸せ」が、「金メダルなんていらない」に変わってしまったのです。次のアトランタ五輪の結果は第10位。ふっ切れた彼女に、水泳への未練はありませんでした。

いくら熱中できるものがあっても、その喜びが永遠に続くと言い切れるだろうか。生きがいによる満足感も、いつか色あせる運命からは逃れられない、つまり「幸せは続かない」という悲しい現実を、高森顕徹先生は私に突きつけているように感じました。

でも、それを「仕方がない」「幸せとはそんなもの」と諦めるのは絶対にイヤでした。
だから今、私は親鸞聖人の教えを学んでいるんだ、と法話を聞いたり、高森顕徹先生の本を読んだりすると、原点に立ち返らされます。
仏教を学び、仏教用語にも親しみが持てるようになりました。
日本人の生活にとけ込んでいるのが仏教の教えなんだとわかって、と仏教に親近感を持ちます。
特に「因果応報」という言葉は、因果の道理の教えに基づいていて、努力することの大切さを学びました。
また、「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉が、すごく好きです。
その言葉の意味どおり、笑顔とやさしい言葉に努めていきたい、と思います。