Posted in 2010年5月10日 ¬ 11:43 AMh.コメントは受け付けていません。
歎異抄第一章
弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、
念仏申さんと思いたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
あずけしめたもうなり。
弥陀の救いは、「平生の一念」であることが明示されている。
どこに?
「念仏申さんと思いたつこころのおこるとき」
どうして、そういうことがいえるのでしょうか。
念仏申さんと思いたつこころのおこる「とき」がどうして、一念(何億分
の一秒よりも短いときをいう) といえるのか。
すなわち摂取不捨の利益にあずかる、と続いている。
摂取不捨の利益とは、絶対の幸福のこと。
「すなわち」 (即) この四字が、読めないのだ。
ちゃんと、「一念」 が明示してあるのだ。
親鸞聖人の教えでは、「すなわち(即)」=「一念」 のこと。
親鸞聖人の教えにおいて、「すなわち(即)」 は、きわめて重要な意味を
持つ。
親鸞聖人の教え=即の教え、をよく理解していないから、
「すなわち」 の四字が、書かれてあるのに、読めないのだ。
歎異抄を書いた人は、親鸞聖人の教えをよく理解していたことが、
推察される。
高森顕徹先生から聞かせていただかないと、もうわからない「すなわち」
でした。
親鸞会では、毎月、高森顕徹先生のお話があります。
親鸞会のことを知りたい方は、ホームページをご覧ください。
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Posted in 2010年4月16日 ¬ 3:00 PMh.コメントは受け付けていません。
高森顕徹先生から、常日頃聞かせて頂いていることを書きます。
仏教は、後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決
で終わります。 ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教は
はじまりません。
親鸞聖人の教えといっても、仏教以外にはありません。
「さらに親鸞、めずらしき法をひろめず、釈迦の教法を、われも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」 と仰言っています。
仏教が分からない、親鸞聖人の教えがわからないのは、
そもそも、スタートである“後生の一大事” がまったくわかっていない
のが原因です。
浄土真宗の門徒、といっても、
「念仏さえ称えていれば、死んだら極楽、死んだら仏」 と、
寝とぼけたことを聞かされている人が、ほとんどです。
いや、聞かされているどころか、ほとんどは、葬式や法事以外に
寺に用事がないのが実態。
もう廃れきっている、親鸞聖人の教えのカケラも無い、のが現状です。
仏教は、後生の一大事にはじまり、後生の一大事の解決に終わる。
仏教は、後生の一大事と、その解決の方法を教えられたもの。
今日、どこにこのように教えてくださる方があるでしょうか。
親鸞会では、本当の親鸞聖人の教えが説かれています。
親鸞会で、後生の一大事とその解決を、共に聞かせて頂きましょう。
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Posted in 2010年1月6日 ¬ 1:51 PMh.コメントは受け付けていません。
高森顕徹先生から聞かせて頂いている阿弥陀如来の本願について、話をしていました。
大宇宙の仏の先生である阿弥陀如来は、
「我を信じよ、どんな人をも 必ず救う 絶対の幸福に」 と誓われています。
すべての人間は、みな苦しんでいる。
大統領からホームレスに至るまで、金、財産、地位、名誉、家族などの有無に関係なく
苦しみ悩んでいる。 どうしてなのか。すべての人間を苦しめている元凶は何なのか。
阿弥陀如来は、五劫という長期間、徹底調査され、すべての人の苦しみ悩みの根元は
「無明の闇」という暗い心である、とつきとめられました。
では、無明の闇とは、なにか。
高森顕徹先生の書かれた「なぜ生きる」 に詳しく書かれていますので、それを読んで
頂けたらと思いますが、ここでは簡単に説明したいと思います。
無明とは明かりが無い、暗い心をいいます。
暗いとは、ハッキリしない、わからない、ということです。
何に暗いのかといいますと、後生に暗い心だけを、無明の闇といいます。
後生とは、一息切れたら後生です。
後生と聞くと、遠い先のことだと思っていますが、そうではありません。
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、後生です。
吸う息、吐く息とふれあっているのが後生です。
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Posted in 2009年12月19日 ¬ 10:21 AMh.コメントは受け付けていません。
本師本仏の阿弥陀如来には、48の本願(お約束)があります。
なかでも、阿弥陀仏の本心が誓われているのが、18番目の本願です。
選択本願、王本願とも言われます。
釈迦が仏教を説かれた目的も、この18願一つを説かれるためでした。
高森顕徹先生も、常に弥陀の本願一つを説かれています。
18願は漢字で36文字。
阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)は、逆謗の屍(五逆罪、謗法罪を造り、
金輪際助かる縁手がかりの無い者)とみてとられ、そういう者を、必ず生まれさせる、
と本願に誓われています。
「若不生者 不取正覚」 (もし生まれさせることができなければ、正覚(仏の命)を捨てましょう)
阿弥陀仏は、命をかけて、必ず生まれさせる、と誓われています。
では、なにを、どのように、生まれさせる、と仰言っているのでしょうか。
親鸞聖人は、
「若不生者の誓ゆえ、信楽まことに時いたり
一念慶喜する人は、往生必ず定まりぬ」
と、仰言っています。
阿弥陀仏が命をかけて誓っておられるから、必ず信楽の心に生まれる時がくるのだ、
と仰言っています。暗い心を明るい心に生まれさせる、と弥陀は誓っておられるのです。
では、暗い心とはなんなのでしょうか。高森顕徹先生から教えて頂いたことを、
続けて書かせていただきます。
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Posted in 2009年12月2日 ¬ 3:53 PMh.コメントは受け付けていません。
高森顕徹先生が、常に教えて下さることは、阿弥陀仏の本願ただ一つです。
七高僧、親鸞聖人、蓮如上人、歴代の善知識方は、みな弥陀の本願以外に
とかれてはいません。 それはお釈迦様が生涯、阿弥陀仏の本願しか説いて
おられないから、当然のことであります。
私たちは、阿弥陀仏の本願によらねば、絶対に救われることはありません。
阿弥陀仏は、
「すべての人を、必ず助ける、絶対の幸福に」
と誓われています。 「すべての人」と約束をしておられる仏は、阿弥陀仏
だけです。 では、阿弥陀仏は、約束の相手である十方衆生を、どうみて
とられているのか。
唯除逆謗と、弥陀は仰言っています。
「唯除」とは、金輪際助かる縁手がかりのない者。
「逆謗」とは、五逆罪をつくっている者、謗法罪を犯している者。
すべての人間は、逆謗の屍、とみてとられ、それを、
「若し生まれずは、正覚を取らじ」 と、必ず生まれさせてみせる、
と命をかけて誓われているのです。
ゆえに、阿弥陀如来の本願を、親鸞聖人は若不生者の誓い、とも
言われているのです。 親鸞聖人も、高森顕徹先生も、この「生まれさせる」とは、
死んでからではないぞ、生きている現在だぞ、と、私たちが聞き誤り
やすいところを正してくださっています。
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Posted in 2009年9月26日 ¬ 3:59 PMh.コメントは受け付けていません。
高森顕徹先生が、毎回、ご説法をはじめられる前に述べられる、
「あわれ、あわれ
存命のうちに、
みなみな、信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり
まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心、しばらくもやむことなし」
という、蓮如上人の御遺言について、話をしていました。
まず、最初に、「あわれ、あわれ」と蓮如上人は仰言っています。
「あわれだなあ、かわいそうだなあ、不憫だなあ」 と、お亡くなりになる直前の
蓮如上人が、生きている人たちに対して仰言っています。
ふつうは逆ですよね。生きている人たちが、死んでいかねばならない人に対して、
かわいそうだなあ、あわれだなあ、と言います。
では、蓮如上人は、なにを、「かわいそうだ、不憫だ」と言われているのでしょうか。
「存命のうちに」とは、命のある間に、ということ。死んでからでは間に合いませんよ。
生きているときが勝負ですよ、ということ。
「みなみな」とは、みんなの人に。すべての人に。
「信心決定あれかし」 信心決定(しんじんけつじょう、と読みます)してもらいたい。
「朝夕思いはんべり」 この蓮如、朝から晩まで思い続けていることは、このことばかりだ。
以上でおわかりのように、蓮如上人が85歳で亡くなるまで、一日中思い続けて
おられたことは、「命のある間に、みんなの人に信心決定してもらいたい」 これ一つ
であったことが、おわかりでしょう。
祖師親鸞聖人も、私たちに願っておられることは、「信心決定」これ一つであります。
ですから、「信心決定」ということが、わからなければ、親鸞聖人や蓮如上人の教えは
絶対にわかりませんし、浄土真宗にはなりません。
高森顕徹先生は、つねに、ご説法で、信心決定とはどういうことかを、お話下さって
います。
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Posted in 2009年6月11日 ¬ 4:36 PMh.コメントは受け付けていません。
今回は、高森顕徹先生の本、『白道燃ゆ』からご紹介します。
「金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、という迷信が、人類を支配している。
迷信に凝り、線香六十束でいぶり殺された娘さんや、悪魔を退散させてやるといい殴り殺した事件や、邪教を盲信して医者にかからず、盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、迷信の犠牲者ではない。
金や、財産や、地位や、名声は、我々を幸福にする材料ではあるが、それがそのまま幸福ではない。
幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、全人類を不幸のドレイにしている」
と書かれてありました。
初めて読んだとき、「幸福」と「幸福の材料」という言葉をみて、今までその違いをまったく考えてこなかったので、「どういうことだろうか?」と思ったことを覚えています。
高森顕徹先生は、
「いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。
生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても同じである。いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。技術がなければ、つくった洋服は着られない。
たとえ材料は悪くとも、お花の先生は美しい花をいけるし、料理の先生は、美味しい料理を作る。名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。悪い材料も生きてくる」
と教えてくださいました。
これは、身近なことでも、よくあることなので、すごく反省させられました。
性能の高いパソコンを買っても、結局、インターネットを見ることぐらいにしか使っていない私は、まさに「宝の持ち腐れ」です。
材料が、ぜんぜん活かされてないなぁ、と恥ずかしい気持ちになりました。
「あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、ぜいたくな生活をしながら、不幸をかこっている人もある。また、貧しい生活の中にも、我が身の幸福を喜び、力強い、明るい生活を送っている人もいるのはその為である」
とも書かれてあり、幸せに生きられるか、不幸に苦しむか、それは、裕福かどうかで決まることではない、ということがよくわかりました。
これまで、政治・経済、科学や医学の進歩により、快適で住みやすい環境を手に入れさえすれば幸せだと思っていましたが、考え違いでした。
実際、どんな環境を手に入れても、不安と焦燥、満たされない孤独感に悩み、自殺する人は後を絶ちません。
快適さと幸せに生きられるかどうかは、また別の問題だ、ということを、高森顕徹先生の「白道燃ゆ」を読んで知らされました。
親鸞聖人の教えには、人々が求めてやまない生きる目的がハッキリと教えられています。それ一つを伝えているのが浄土真宗親鸞会であり、高森顕徹先生は、その正しい親鸞聖人の教えを、ただひたすらに説いておられます。
合掌
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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Posted in 2009年4月15日 ¬ 3:26 PMh.コメントは受け付けていません。
高森顕徹先生の本を読むと、まるで自分に語りかけられているような気持ちになります。
「あなたにとって幸せとは何?」
高森顕徹先生からそのように問われているかのようです。
人生の幸せって何だろう?
私がちょうど予備校に通っていた時期、良く考えていた事です。
憧れの会社で働く。
お金持ちになる。
大好きな人と結婚し、家族の団欒を持つ。
思い浮かぶ事は色々。
でも、どの答えも何かスッキリしないものがありました。
高森顕徹先生の監修された本『なぜ生きる』を読んだ時、平成4年のバルセロナオリンピックで、平泳ぎ金メダルを取った、当時14歳の岩崎恭子選手の事が書かれていました。「生きていていちばん幸せ」とインタビューで語ったとおり、14歳で、人生最大の喜びが訪れたのです。当然周囲は「もう一度金メダルを」と期待し、大きなプレッシャーに。高校受験のため練習ができず、記録は不振。何度も水泳をやめようと思い、「金メダルなんていらないと思った」と述べています。
「いちばん幸せ」が、「金メダルなんていらない」に変わってしまったのです。次のアトランタ五輪の結果は第10位。ふっ切れた彼女に、水泳への未練はありませんでした。
いくら熱中できるものがあっても、その喜びが永遠に続くと言い切れるだろうか。生きがいによる満足感も、いつか色あせる運命からは逃れられない、つまり「幸せは続かない」という悲しい現実を、高森顕徹先生は私に突きつけているように感じました。
でも、それを「仕方がない」「幸せとはそんなもの」と諦めるのは絶対にイヤでした。
だから今、私は親鸞聖人の教えを学んでいるんだ、と法話を聞いたり、高森顕徹先生の本を読んだりすると、原点に立ち返らされます。
仏教を学び、仏教用語にも親しみが持てるようになりました。
日本人の生活にとけ込んでいるのが仏教の教えなんだとわかって、と仏教に親近感を持ちます。
特に「因果応報」という言葉は、因果の道理の教えに基づいていて、努力することの大切さを学びました。
また、「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉が、すごく好きです。
その言葉の意味どおり、笑顔とやさしい言葉に努めていきたい、と思います。
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Posted in 2009年2月12日 ¬ 3:34 PMh.コメントは受け付けていません。
高森顕徹先生の書かれた本である「こんなことが知りたい」というシリーズが全部で4巻あります。この高森顕徹先生のシリーズの内容は、質問者の問いに、高森顕徹先生が、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉、仏教の用語や教えを解説される形で答えられているものです。仏教入門にピッタリの本と言えるでしょう。
その中に書かれてあった問いの一つはこうでした。
『私は時々、自分はなぜこんなにまで苦しみながら生きてゆかねばならぬのか、何の為に働いているのだろうかと考えます。人生の目的は何でしょうか。』
まさに私の知人の悩みと一緒です。
これに対し高森顕徹先生の答えは、
『自分は何の為に生きるのか。苦しみに耐えながら、なぜ働かねばならぬのか。真面目に生きている人ならば必ず疑問がおきます。若し、何の為に働いているのかと問えば、殆どの人は喰わんが為だと答えます。では何の為に喰うのかと問えば、喰わねば死んでしまうからだと答えます。では、喰うてさえいれば何時までも生きていられるのかと言えば、どんな人でも返答に窮してしまいます。
人間は生きる為に食べ、食べる為に忙しそうに働くのですが、一日生きたということは確実に一日死に近づく。これは誰も否定できない厳粛な事実であり、万人が逃れることのできないさだめなのです。』
私は初めて高森顕徹先生のこの著書を読んだとき、衝撃を受けました。
なぜ働くのか?と聞かれ、仕事内容が楽しいから、充実しているから、と答える人も、収入のない仕事には就かないでしょう。あくまでお金がもらえることが前提ですから、働くのは「生きていくため」なのです。「仕事のために生きる」という気持ちでいた私に、「生きるために仕事をする」という高森顕徹先生の言葉は、その時の私には大変ショッキングでした。
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Posted in 2009年1月18日 ¬ 3:13 PMh.コメントは受け付けていません。
前の日記に続いた記事です。
仕事で悩む知人に対し、私は 「苦しむための人生であるはずないよ。仏教を学んでいるんだけど、“生きてて良かった”と言える人生の目的があると、親鸞聖人は教えられているんだ」と高森顕徹先生から法話で聞かせて頂いたことを伝えました。
すると知人は、「人生の目的なんてあるのか?そんなのそれぞれ一人一人が自分で探して見つけるものだろう?」と言います。
「いや、人生の目的は、全ての人に共通するたった一つの目的の事なんだ」と、高森顕徹先生から聞かせていただいた親鸞聖人の教えを話をしようとしたのですが、「それは君が仏教を学んでるからそう思うんだ。第一、僕はあまり宗教は好きじゃない」と彼に拒否されてしまいました。
私は、「人生の目的なんてあるはずない」「生きる目的は人それぞれ」という彼の言葉が忘れられず、帰宅してすぐに高森顕徹先生の本を読み直してみたのです。
高森顕徹先生監修の著書「なぜ生きる」には、プラトンの紹介がありました。プラトンは”永遠の幸福は万人に共通した目的”と論じている人です。しかし、永遠の幸福が「万人共通の人生の目的」といえば、「人生の目的は人それぞれだ」と、反論する人もいるでしょう。
それは、人生の目的を、大学合格、恋人を得る、安定した職に就く、マイホーム、大金持ちになる、ノーベル賞を取る、などのことのように考えているから、と書かれてありました。これらは〝とりあえず今はこれを目指す〟という人生の通過駅であり、「目標」と呼ばれるものであって、「人生の目的」とは違うものだとわかりました。親鸞聖人の教えを学ぶまで、このような「生きる目的」と「生きる目標」の違いは聞いたことがありませんでした。高森顕徹先生が伝えておられる親鸞聖人の教えの深さに、驚かされることばかりです。
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