快適な環境と幸せに生きる事の違いとは-高森顕徹先生の著書に学ぶ

今回は、高森顕徹先生の本、『白道燃ゆ』からご紹介します。
「金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、という迷信が、人類を支配している。
 迷信に凝り、線香六十束でいぶり殺された娘さんや、悪魔を退散させてやるといい殴り殺した事件や、邪教を盲信して医者にかからず、盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、迷信の犠牲者ではない。
 金や、財産や、地位や、名声は、我々を幸福にする材料ではあるが、それがそのまま幸福ではない。
 幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、全人類を不幸のドレイにしている」
と書かれてありました。
初めて読んだとき、「幸福」と「幸福の材料」という言葉をみて、今までその違いをまったく考えてこなかったので、「どういうことだろうか?」と思ったことを覚えています。

高森顕徹先生は、
「いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。
生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても同じである。いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。技術がなければ、つくった洋服は着られない。
たとえ材料は悪くとも、お花の先生は美しい花をいけるし、料理の先生は、美味しい料理を作る。名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。悪い材料も生きてくる」

と教えてくださいました。
これは、身近なことでも、よくあることなので、すごく反省させられました。
性能の高いパソコンを買っても、結局、インターネットを見ることぐらいにしか使っていない私は、まさに「宝の持ち腐れ」です。
材料が、ぜんぜん活かされてないなぁ、と恥ずかしい気持ちになりました。

「あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、ぜいたくな生活をしながら、不幸をかこっている人もある。また、貧しい生活の中にも、我が身の幸福を喜び、力強い、明るい生活を送っている人もいるのはその為である」

とも書かれてあり、幸せに生きられるか、不幸に苦しむか、それは、裕福かどうかで決まることではない、ということがよくわかりました。

これまで、政治・経済、科学や医学の進歩により、快適で住みやすい環境を手に入れさえすれば幸せだと思っていましたが、考え違いでした。

実際、どんな環境を手に入れても、不安と焦燥、満たされない孤独感に悩み、自殺する人は後を絶ちません。

快適さと幸せに生きられるかどうかは、また別の問題だ、ということを、高森顕徹先生の「白道燃ゆ」を読んで知らされました。

親鸞聖人の教えには、人々が求めてやまない生きる目的がハッキリと教えられています。それ一つを伝えているのが浄土真宗親鸞会であり、高森顕徹先生は、その正しい親鸞聖人の教えを、ただひたすらに説いておられます。

合掌

南無阿弥陀仏
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