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高森顕徹先生のお話(2)

高森顕徹先生が、毎回、ご説法をはじめられる前に述べられる、

「あわれ、あわれ

存命のうちに、

みなみな、信心決定あれかしと、

朝夕思いはんべり

まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心、しばらくもやむことなし」

という、蓮如上人の御遺言について、話をしていました。

まず、最初に、「あわれ、あわれ」と蓮如上人は仰言っています。

「あわれだなあ、かわいそうだなあ、不憫だなあ」 と、お亡くなりになる直前の

蓮如上人が、生きている人たちに対して仰言っています。

ふつうは逆ですよね。生きている人たちが、死んでいかねばならない人に対して、

かわいそうだなあ、あわれだなあ、と言います。

では、蓮如上人は、なにを、「かわいそうだ、不憫だ」と言われているのでしょうか。

「存命のうちに」とは、命のある間に、ということ。死んでからでは間に合いませんよ。

生きているときが勝負ですよ、ということ。

「みなみな」とは、みんなの人に。すべての人に。

「信心決定あれかし」 信心決定(しんじんけつじょう、と読みます)してもらいたい。

「朝夕思いはんべり」 この蓮如、朝から晩まで思い続けていることは、このことばかりだ。

以上でおわかりのように、蓮如上人が85歳で亡くなるまで、一日中思い続けて

おられたことは、「命のある間に、みんなの人に信心決定してもらいたい」 これ一つ

であったことが、おわかりでしょう。

祖師親鸞聖人も、私たちに願っておられることは、「信心決定」これ一つであります。

ですから、「信心決定」ということが、わからなければ、親鸞聖人や蓮如上人の教えは

絶対にわかりませんし、浄土真宗にはなりません。

高森顕徹先生は、つねに、ご説法で、信心決定とはどういうことかを、お話下さって

います。

高森顕徹先生のお話

高森顕徹先生は、いつも話をされる前に、次の言葉を言われます。

布教をはじめられた50年前から、ずっとだそうです。

「あわれ、あわれ

存命のうちに、

みなみな、信心決定あれかしと、

朝夕思いはんべり

まことに宿善まかせとはいいながら、述懐の心、しばらくもやむことなし」

これは、今から約500年前に亡くなられた蓮如上人という方の遺言です。

蓮如上人とは、どんな方かと言いますと、親鸞聖人の教えを、正確に、

迅速に、もっとも多くの人に伝えた人です。今日まで、蓮如上人の右に出る人はないといわれます。

親鸞聖人は800年前の方で90歳で亡くなられ、蓮如上人は500年前の方で85歳で亡くなって

おられます。 今日、形だけとはいえ、浄土真宗の寺は2万を越えていますが、この蓮如上人の時代

に急速に広まったと言われています。

その蓮如上人は、三頭の馬を使われ、日本全国をかけめぐり、正確に親鸞聖人の教えを伝えて

いかれました。 その影響力が大きかったからでしょう、邪教邪宗の者から、ねたまれ、そねまれ、

なんども命を狙われておられます。

今日、私たちが親鸞聖人の教えを聞かせて頂けるのも、この蓮如上人の命がけのご布教が

あったなればこそと、感謝せずにおれません。

その蓮如上人が、85歳で亡くなるときに、おっしゃったのが、上にあげた言葉です。

遺言とは、その人がもっとも言いたい、これだけは言い残したい、というひじょうに大事なことです。

どうでもいいことは遺言しません。

蓮如上人がもっとも願っておられること、これ一つわかってもらいたい、と思っておられることが

言われているはずです。それは、そのまま親鸞聖人の願っておられることであり、

50年以上、このお言葉を讃題で述べられて話をされてきた高森顕徹先生が、もっとも願って

おられることと思います。

では、このお言葉の意味は次回、お話したいと思います。

「生き方」の問題-高森顕徹先生から学ぶ親鸞聖人の教え

現代の政治や経済、医学などは常に進歩しています。しかしそれで私たちが幸せになれるのかと言えば、そうとは言えないようです。
高森顕徹先生の本『なぜ生きる』をご紹介します。

一人の遭難者を助けるために、レスキュー隊が動員されます。人命は地球よりも重いと言われているからでしょう。「生きることイコール良いこと」、この大原則が否定されたら、延命を目的とする医学をはじめ、政治・経済、科学・芸術、倫理・法律も、すべてが空中分解します。これらは、「どうすればより長く、快適に生きられるか」の追求以外ないからです。
リストラや介護の不安を解決して、安心して生きられるようにするのが、政治や経済の役目でしょう。昔の洗濯は中腰のまま洗濯板に衣類を押しつけ、固くしぼりあげる重労働だった。「洗多苦」とよばれるほどでしたが、今はボタン一つ押すだけ。科学技術の進歩で、生活が楽になったことは否めません。人間関係のトラブルを解消し、気持ちよく生きられるようにするのが倫理や法律です。毎日、仕事仕事では大変なので、明日への活力剤として、芸術やスポーツがあります。
これらはみんな、「どうやって苦しい人生、楽しく生きるか」の努力です。「人類への貢献」といわれるものも、この「生き方」の範疇以外のものではありません。

「生き方」の問題……。

走ることに置き換えれば、「走り方」の問題になります。

政治や経済、科学や医学は、例えて言えば、より長く、より快適に走ることが出来るようにサポートしてくれるもの。
そうなると、それらの進歩・発展は、確かにうれしいことですが、それがそのまま私たちの幸せになるかというと、そうは言えないようです。

走る人にとって、最も大切なのは、「ゴール」ですから、そのゴールがハッキリしていてこそ、走ることに意味があるし、私たちをサポートしてくれるものに、だから感謝できるのだと思いました。

「走る」ことで言えば、「ゴール」。
じゃあ、「生きる」ことで言う「ゴール」、「生きる目的」は何だろう?
自然と、こんな疑問が起きてきました。

高森顕徹先生は、親鸞聖人の教えを通して、この疑問にはっきりと答えて下さいました。
親鸞会は、その親鸞聖人の教えを正確に伝えるための集まりであることがわかります。

快適な環境と幸せに生きる事の違いとは-高森顕徹先生の著書に学ぶ

今回は、高森顕徹先生の本、『白道燃ゆ』からご紹介します。
「金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、という迷信が、人類を支配している。
 迷信に凝り、線香六十束でいぶり殺された娘さんや、悪魔を退散させてやるといい殴り殺した事件や、邪教を盲信して医者にかからず、盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、迷信の犠牲者ではない。
 金や、財産や、地位や、名声は、我々を幸福にする材料ではあるが、それがそのまま幸福ではない。
 幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、全人類を不幸のドレイにしている」
と書かれてありました。
初めて読んだとき、「幸福」と「幸福の材料」という言葉をみて、今までその違いをまったく考えてこなかったので、「どういうことだろうか?」と思ったことを覚えています。

高森顕徹先生は、
「いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。
生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても同じである。いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。技術がなければ、つくった洋服は着られない。
たとえ材料は悪くとも、お花の先生は美しい花をいけるし、料理の先生は、美味しい料理を作る。名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。悪い材料も生きてくる」

と教えてくださいました。
これは、身近なことでも、よくあることなので、すごく反省させられました。
性能の高いパソコンを買っても、結局、インターネットを見ることぐらいにしか使っていない私は、まさに「宝の持ち腐れ」です。
材料が、ぜんぜん活かされてないなぁ、と恥ずかしい気持ちになりました。

「あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、ぜいたくな生活をしながら、不幸をかこっている人もある。また、貧しい生活の中にも、我が身の幸福を喜び、力強い、明るい生活を送っている人もいるのはその為である」

とも書かれてあり、幸せに生きられるか、不幸に苦しむか、それは、裕福かどうかで決まることではない、ということがよくわかりました。

これまで、政治・経済、科学や医学の進歩により、快適で住みやすい環境を手に入れさえすれば幸せだと思っていましたが、考え違いでした。

実際、どんな環境を手に入れても、不安と焦燥、満たされない孤独感に悩み、自殺する人は後を絶ちません。

快適さと幸せに生きられるかどうかは、また別の問題だ、ということを、高森顕徹先生の「白道燃ゆ」を読んで知らされました。

親鸞聖人の教えには、人々が求めてやまない生きる目的がハッキリと教えられています。それ一つを伝えているのが浄土真宗親鸞会であり、高森顕徹先生は、その正しい親鸞聖人の教えを、ただひたすらに説いておられます。

合掌

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

「幸福」と「幸福の材料」の違い-高森顕徹先生の著書より

浄土真宗親鸞会の法話会では、浄土真宗の教えを親鸞聖人、蓮如上人の言葉から詳しく教えて頂きますが、時に、歴史上の偉人のエピソードを通して話をされることもよくあります。
そのような小話がたくさん掲載されているのが高森顕徹先生の書かれた『光に向かって100の花束』です。

その中の一つの小話に、こんなのがあります。

徳川家康が、「この世で一番おいしいものは何か述べよ」と周りの家臣たちに尋ねたお話です。ある者は「酒」といい、ある者は「菓子」、「果物」と、好みの嗜好物をあげたのですが、いずれの答えにも家康は不満げでした。
そこで、同様に局のお梶に対しても尋ねると、「一番おいしいものは塩でございます」と、お梶はきっぱり答えました。「なるほど、それでは一番まずいものはなにか」重ねて尋ね、それに対してもお梶は「一番まずいものは塩でございます」と無造作に答えました。

「さすがお梶である」 家康は、彼女の聡明さに感心したという。

塩は味の素であり、あらゆる味を活かすものだから、一番おいしいものに間違いありません。また、すべての味を殺すのも塩ですから、一番まずいものでもあります。さらに直言すれば、本来塩は、おいしいものでも、まずいものでもなく、サジ加減一つで変化する。塩は味の材料にすぎないので、これをこなすサジ加減こそ、味の素であることを道破したところに、お梶の答弁が妙答として、万人をうなずかせた、というお話です。

高森顕徹先生は、健康も財宝も名誉も幸福の材料にすぎず、これらを自在にこなしきることこそ、人生の要諦であろう、と教えてくださっています。
おいしい料理には、確かにおいしい食材が必要。しかし何よりも、その材料を活かす腕が重要だとわかります。

高森顕徹先生から教えていただいて、人生への視点がガラッと変わりました。
今までの人生は、良い食材さえ揃えばうまい料理ができる、と誤解していたのだな、と思いました。

高森顕徹先生の本は、私たちの盲点になっているところに、「ハッ」と気づかせる内容が多数掲載されているので、何度も読み返さずにはいられません。

「幸せは続かない」高森顕徹先生から教えていただいたこと

高森顕徹先生の本を読むと、まるで自分に語りかけられているような気持ちになります。
「あなたにとって幸せとは何?」
高森顕徹先生からそのように問われているかのようです。

人生の幸せって何だろう?
私がちょうど予備校に通っていた時期、良く考えていた事です。
憧れの会社で働く。
お金持ちになる。
大好きな人と結婚し、家族の団欒を持つ。
思い浮かぶ事は色々。
でも、どの答えも何かスッキリしないものがありました。

高森顕徹先生の監修された本『なぜ生きる』を読んだ時、平成4年のバルセロナオリンピックで、平泳ぎ金メダルを取った、当時14歳の岩崎恭子選手の事が書かれていました。「生きていていちばん幸せ」とインタビューで語ったとおり、14歳で、人生最大の喜びが訪れたのです。当然周囲は「もう一度金メダルを」と期待し、大きなプレッシャーに。高校受験のため練習ができず、記録は不振。何度も水泳をやめようと思い、「金メダルなんていらないと思った」と述べています。
「いちばん幸せ」が、「金メダルなんていらない」に変わってしまったのです。次のアトランタ五輪の結果は第10位。ふっ切れた彼女に、水泳への未練はありませんでした。

いくら熱中できるものがあっても、その喜びが永遠に続くと言い切れるだろうか。生きがいによる満足感も、いつか色あせる運命からは逃れられない、つまり「幸せは続かない」という悲しい現実を、高森顕徹先生は私に突きつけているように感じました。

でも、それを「仕方がない」「幸せとはそんなもの」と諦めるのは絶対にイヤでした。
だから今、私は親鸞聖人の教えを学んでいるんだ、と法話を聞いたり、高森顕徹先生の本を読んだりすると、原点に立ち返らされます。
仏教を学び、仏教用語にも親しみが持てるようになりました。
日本人の生活にとけ込んでいるのが仏教の教えなんだとわかって、と仏教に親近感を持ちます。
特に「因果応報」という言葉は、因果の道理の教えに基づいていて、努力することの大切さを学びました。
また、「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉が、すごく好きです。
その言葉の意味どおり、笑顔とやさしい言葉に努めていきたい、と思います。

やがて死ぬのに生きるのはなぜか-高森顕徹先生から「なぜ生きる」を学ぶ

高森顕徹先生の著書の中に、『人間は生きる為に食べ、食べる為に働くが、一日生きた事は確実に一日死に近づいている。これは誰も否定できない事実で、万人が逃れることのできない定めだ。』というところがあります。高森顕徹先生の言葉を理解せず、「何を今さらわかりきったことを言うのだ」と思う人も居れば、「そんな考え、暗くなるからやめてくれ」と嫌悪感を抱く人も居るかもしれません。

私も高森顕徹先生に出会い、仏教を学ぶまでは、「親鸞聖人のことは良く知らないが、今を明るく楽しく生きなければ意味がない!」と思っていました。でも「結局死んでいくのに、何をあくせく生きるのか」と問われると、答えは見つかりませんでした。
「何の為に働くのか」と問えば「収入を得るため」と答えます。「何の為に収入を得るのか」と聞かれれば「お金がないと、生きていけないから」と答えるわけです。
「では働いていれば、ずっと生きていけるのか」、こう言われたら、何も言えません。仕事が楽しい人ならまだしも、知人の様に仕事で辛い思いをしている人は、「働かなければ死んでしまう。でも働いても、どうせ死ぬ。じゃあ、何のために働き生きていくのか」の疑問は、起きて当然の事なのです。

知人の苦しい心境を本当に解っていたかと言えば違っていたという事が、高森顕徹先生の本を読んだことで気付きました。同時に、知人へ、私からのメッセージが届かなかった根本的な理由は、高森顕徹先生が伝えたい、本当の親鸞聖人の教えを私が理解していなかった事にあったとわかったのです。

高森顕徹先生の本から考える、働くことと生きること

高森顕徹先生の書かれた本である「こんなことが知りたい」というシリーズが全部で4巻あります。この高森顕徹先生のシリーズの内容は、質問者の問いに、高森顕徹先生が、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉、仏教の用語や教えを解説される形で答えられているものです。仏教入門にピッタリの本と言えるでしょう。

その中に書かれてあった問いの一つはこうでした。
『私は時々、自分はなぜこんなにまで苦しみながら生きてゆかねばならぬのか、何の為に働いているのだろうかと考えます。人生の目的は何でしょうか。』
まさに私の知人の悩みと一緒です。

これに対し高森顕徹先生の答えは、
『自分は何の為に生きるのか。苦しみに耐えながら、なぜ働かねばならぬのか。真面目に生きている人ならば必ず疑問がおきます。若し、何の為に働いているのかと問えば、殆どの人は喰わんが為だと答えます。では何の為に喰うのかと問えば、喰わねば死んでしまうからだと答えます。では、喰うてさえいれば何時までも生きていられるのかと言えば、どんな人でも返答に窮してしまいます。
人間は生きる為に食べ、食べる為に忙しそうに働くのですが、一日生きたということは確実に一日死に近づく。これは誰も否定できない厳粛な事実であり、万人が逃れることのできないさだめなのです。』

私は初めて高森顕徹先生のこの著書を読んだとき、衝撃を受けました。

なぜ働くのか?と聞かれ、仕事内容が楽しいから、充実しているから、と答える人も、収入のない仕事には就かないでしょう。あくまでお金がもらえることが前提ですから、働くのは「生きていくため」なのです。「仕事のために生きる」という気持ちでいた私に、「生きるために仕事をする」という高森顕徹先生の言葉は、その時の私には大変ショッキングでした。

高森顕徹先生の講演会で「人生の目的」と「生きる目標」の違いを学ぶ

前の日記に続いた記事です。
仕事で悩む知人に対し、私は 「苦しむための人生であるはずないよ。仏教を学んでいるんだけど、“生きてて良かった”と言える人生の目的があると、親鸞聖人は教えられているんだ」と高森顕徹先生から法話で聞かせて頂いたことを伝えました。

すると知人は、「人生の目的なんてあるのか?そんなのそれぞれ一人一人が自分で探して見つけるものだろう?」と言います。

「いや、人生の目的は、全ての人に共通するたった一つの目的の事なんだ」と、高森顕徹先生から聞かせていただいた親鸞聖人の教えを話をしようとしたのですが、「それは君が仏教を学んでるからそう思うんだ。第一、僕はあまり宗教は好きじゃない」と彼に拒否されてしまいました。

私は、「人生の目的なんてあるはずない」「生きる目的は人それぞれ」という彼の言葉が忘れられず、帰宅してすぐに高森顕徹先生の本を読み直してみたのです。

高森顕徹先生監修の著書「なぜ生きる」には、プラトンの紹介がありました。プラトンは”永遠の幸福は万人に共通した目的”と論じている人です。しかし、永遠の幸福が「万人共通の人生の目的」といえば、「人生の目的は人それぞれだ」と、反論する人もいるでしょう。

それは、人生の目的を、大学合格、恋人を得る、安定した職に就く、マイホーム、大金持ちになる、ノーベル賞を取る、などのことのように考えているから、と書かれてありました。これらは〝とりあえず今はこれを目指す〟という人生の通過駅であり、「目標」と呼ばれるものであって、「人生の目的」とは違うものだとわかりました。親鸞聖人の教えを学ぶまで、このような「生きる目的」と「生きる目標」の違いは聞いたことがありませんでした。高森顕徹先生が伝えておられる親鸞聖人の教えの深さに、驚かされることばかりです。

「人生は苦なり」高森顕徹先生の著書を読む

今回は高森顕徹先生の監修された本、「なぜ生きる」をご紹介します。
私は先日、知人から相談を受けたのですが、彼は『仕事で辛いことが沢山ありすぎる。何故ここまでして生きなくてはいけないのか。』と言っていました。それを聞いて私が思い出したのが、お釈迦さまの「人生は苦なり」という言葉でした。

高森顕徹先生の本には、苦しみや悩みが絶えない人生を、親鸞聖人は海に例えて「難度海」とか「苦海」と言われた、とあります。
天下を取り、征夷大将軍にのぼりつめた徳川家康も、「重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と、死ぬまでずっと苦悩という重荷はおろせなかったと高森顕徹先生は書いておられます。

さらに、無類の楽天家と知られているゲーテでさえ、「結局、私の生活は苦痛と重荷にすぎなかったし、75年の全生涯で真に幸福であったのは4週間とはなかった」と嘆いていることや、自由奔放に生きたことで有名な女流作家の林芙美子も、「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」と言い残したり、夏目漱石の、「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」と妻への手紙に書いたことなど、たくさんの偉人の言葉を、高森顕徹先生は本で紹介して下さっています。

つまり歴史の偉人たちも皆、難度海の人生に苦しんだことを知ることが出来ます。苦しむための人生であるはずがないのですが、幸せになりたいという願いも虚しく、難度海の波に翻弄されて生きている人がほとんどなのではないか、と高森顕徹先生の本を読みつくづく思います。
親鸞聖人の教えを、ぜひ多くの皆さんに知っていただきたいです。